護国寺略縁起 当山の創建は天和元年二月(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌二年、堂宇は完成した。 この創建より以前、桂昌院が綱吉公と共に群馬県館林城においでのとき、亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていたが、偶々綱吉公が将軍職を嗣ぐことになり、桂昌院もその生母として江戸城三の丸に移られた。この頃より、亮賢僧正も祈祷の命を奉じて江戸城を訪れ、幕府の信仰を受けること益々厚く、天和三年二月(一六八三年)桂昌院は初めて当寺に参詣された。 貞享四年三月七日に開山亮賢僧正遷化され、その高弟賢広僧正が嗣いで第二世となる(開山墓地は大正十四年東京府により史蹟に指定される) 元禄七年十月、綱吉公・桂昌院と共に当寺に参詣し、寺領加増され六百石となる。その翌八年、快意僧正第三世を嗣ぐ。快意僧正は特に将軍の帰依を受けること厚く、元禄十年正月(一六九七年)観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で、この大造宮を完成し、同年八月落慶供養の式典が挙げられた。これが現在の観音堂(本堂、昭和二十五年重文指定)であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下隋一のものと賞されている。 以来、孝養心厚い綱吉公は桂昌院の参詣にしばしば同行され、護国寺界隈は当寺の隆盛と共に賑わい、寺領も千二百石と加増されるなど、境内も様々な建造物が甍を併べた大殿宇となった。 宝永四年(一七〇七年)快意僧正護持院住職となり、亮貞僧正が第四世を嗣ぐ。当時、常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は、綱吉公の信仰を専らにし、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し将軍家祈願の任に当っていた。寺領千五百石、真言新義僧録、更らには大僧正に任ぜられる等、綱吉公の信頼を一身に集めていた。 当寺と護持院との関係は深く、両寺共々幕府に奉仕し、その信仰を専有するに至った。その後享保二年正月一七一七年、神田橋護持院は火災を受け、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂塔一宇残らず焼失した。その後幕命により護持院を当寺に合伴し、観音堂の方を護国寺に、本彷の方を護持院とし、それより護持院の住職が当寺を兼ねることとなった。以後、両寺領併せて二千七百石、幕府祈願の任を変りなく勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきたが、維新を迎え、やがて明治となり政治機構一変し、その時、護持院は廃寺となった。しかし、当寺は現存して第一世亮賢僧正の法脈を保持しつづけている。 明治十六年、大正十五年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。 震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。 |
![]() |
|||
.../当山の縁起.
|
|||
![]() |
|||
![]() |
|||
![]() |
〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
お便りはこちらまで info@gokokuji.or.jp
|
護国寺略縁起 当山の創建は天和元年二月(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌二年、堂宇は完成した。 この創建より以前、桂昌院が綱吉公と共に群馬県館林城においでのとき、亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていたが、偶々綱吉公が将軍職を嗣ぐことになり、桂昌院もその生母として江戸城三の丸に移られた。この頃より、亮賢僧正も祈祷の命を奉じて江戸城を訪れ、幕府の信仰を受けること益々厚く、天和三年二月(一六八三年)桂昌院は初めて当寺に参詣された。 貞享四年三月七日に開山亮賢僧正遷化され、その高弟賢広僧正が嗣いで第二世となる(開山墓地は大正十四年東京府により史蹟に指定される) 元禄七年十月、綱吉公・桂昌院と共に当寺に参詣し、寺領加増され六百石となる。その翌八年、快意僧正第三世を嗣ぐ。快意僧正は特に将軍の帰依を受けること厚く、元禄十年正月(一六九七年)観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で、この大造宮を完成し、同年八月落慶供養の式典が挙げられた。これが現在の観音堂(本堂、昭和二十五年重文指定)であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下隋一のものと賞されている。 以来、孝養心厚い綱吉公は桂昌院の参詣にしばしば同行され、護国寺界隈は当寺の隆盛と共に賑わい、寺領も千二百石と加増されるなど、境内も様々な建造物が甍を併べた大殿宇となった。 宝永四年(一七〇七年)快意僧正護持院住職となり、亮貞僧正が第四世を嗣ぐ。当時、常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は、綱吉公の信仰を専らにし、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し将軍家祈願の任に当っていた。寺領千五百石、真言新義僧録、更らには大僧正に任ぜられる等、綱吉公の信頼を一身に集めていた。 当寺と護持院との関係は深く、両寺共々幕府に奉仕し、その信仰を専有するに至った。その後享保二年正月一七一七年、神田橋護持院は火災を受け、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂塔一宇残らず焼失した。その後幕命により護持院を当寺に合伴し、観音堂の方を護国寺に、本彷の方を護持院とし、それより護持院の住職が当寺を兼ねることとなった。以後、両寺領併せて二千七百石、幕府祈願の任を変りなく勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきたが、維新を迎え、やがて明治となり政治機構一変し、その時、護持院は廃寺となった。しかし、当寺は現存して第一世亮賢僧正の法脈を保持しつづけている。 明治十六年、大正十五年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。 震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。 |